明治の京都の復興
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最終更新日:2014/04/27
京都ってこんなとこ, 頑固おやじのひとり言
京都は明治維新に没落の危機に瀕しました。
そのころの人口は35万人弱から、23.5万人強の3分の2になりました。
企業も産業も含め、多くの人が東京に移ったため、京都がゴーストタウンになってしまったようです。
この後の京都の復興策はなんだったのでしょう。
①日本で初めての小学校が、市民の寄付等で出来ました。
ヨーロッパの教育システムの導入です。たった数年前まで、鎖国をしていて、攘夷と唱え、欧米人の事を毛唐と呼び、畏怖の存在であったのが嘘のようです。
②寺の多い寺町の墓地の場所に、新京極という繁華街を府が開発しました。
旧来の保守的な京都なら考えられませんでしょう。まだ人通りが多いです。
③1871年(明治4年)、京都の西本願寺で開催された京都博覧会(京都博覧会社主催)が国内の博覧会最初期のものである。
同博覧会は以後も御所などを会場に行われた。明治36年には万国博も開かれました。
④18年には琵琶湖疎水の建設を始め、琵琶湖から水運、水上交通を、京都に引き、さらには大阪まで繋ぎました。
今でもこの水を、京都、大阪の市民が飲んでいます。水力発電も行われ、市電が通りました。電気事業の始まりです。
京都人は保守的で排他的とよく言われますが、必要な物は、冒険してでもやっていく新取り気質があるのがおわかりになったでしょう。
京都の企業は早くから欧米から技術から学び、又、直接海外に輸出するという事が当たり前になされていました。
それは1500年以上前の渡来文化を花咲かし、継承してきたDNAがあるからでしょうか。
東北の復興もばらまきではなく、今後30年の未来図を描いて、復興をしていただきたいと存じます。
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