京の着倒れ
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最終更新日:2014/04/27
京都ってこんなとこ, 頑固おやじのひとり言
連休で、古い本に私が寄稿していたのがあり、懐かしくて読み直しておりました。
抜粋してみたいと思います。
京都は都が出来る前より渡来人が住みつき町を形成していました。
平安時代に貴族文化が勃興し、1000年以上、貴族を中心とした文化が続きました。
貴族をパトロンとして工芸や食文化が栄え、町衆がそれにあこがれを持っておりました。
京都の金看板はかつては、宮内庁御用達でした。
その歴史の中から、価値判断の基準が形成されました。
判断するのに、いろいろな物差しがありますが、高い安い、大きい小さい、長い、短いという、数値化出来る尺度ではありません。
合理的なものよりも、美しい、楽しい、美味しい、心地良い等の、はかりにくい非合理的なものを大切にします。
これの方が生きていく上において「ゆとり」を得られたり、人々の心をなごませたり、豊かにするものではないでしょうか?
真の満足は一見無駄の中にある事を、無意識の内に根付かさせているのでしょう。
お茶の世界に凝縮されているのかも知れません。
茶室は大小、高い安い等全く論外でした。自分がいいと思ったものを、他の人に値打ちのあるものと感じて頂くのです。
たった一個のお茶碗が、茶器と呼ばれ家よりも高いものであったりするのですから、合理主義者には理解出来ないものでしょう。
京都の老人は良く「不細工どすなあ」とおっしゃいます。
これは勉強が足りないとか、工夫が足りない、他人から見て美しく見えない事を言います。
他人と同じ事をしていても認めてもらえません、同じものでも、工夫次第、見せ方に依って、もっと良く見せられると言うことです。
その為に日常から、五感を働かせ、美しいものを見たり、良い道具に触れたり、身にまとったり、いろいろと教えを請うのです。
本物に接する事で、自らの美意識が高まるわけで、自然と立ち振る舞いや、作法も身に付くのです。
一度出来た美意識はなかなかおとすことが出来ません。それを維持するために頑張れるのです。
京都の着倒れは、量とか価格等で評価するよりも、質の高さを見分ける審美眼を養うのです。
京都では良い職人を育てるのは、質の高い審美眼を持った顧客であると言われ、常に職人は顧客と真剣勝負をしている感があります。
それ故、顧客情報が重んじられ、技術や感性が磨かれるのです。
きものをタンスの肥やしと言われるのは、感性の養分なのです。
京都では、価値を金額で誇る事は、タブーです、卑しくみえます。
価格は、その人にとっての個別の価値であり、他人さんには関係が無いものなのです。