日本人はどこから来たの、その2
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最終更新日:2021/04/22
京都ってこんなとこ, 頑固おやじのひとり言
先日、京丹後市の方から、36000年前の石器が竹野市から偶然出てきたと聞き、そんな時代から日本人は生活してきたのかと驚きました。https://mainichi.jp/articles/20200917/k00/00m/040/288000c
またBC2万年前までは氷河期であり、大陸とはつながっていたとのGOOGLE MAPの検索で推測されるとの事、それが事実と過程したら、陸続きで多くの人が日本に渡って来たと類推される。Googleマップで2万年前の日本地図が見える、すごい使い方│小名木善行 – YouTube 北はカムチャッカ半島から、南はフイリッピン等から、もちろん中国や朝鮮半島から。
そうなると、私は渡来人とは中朝の人と思っていましたが。中東や東南アジアの人たちもおられた様です。
東大寺の大仏は渡来人の作った廬舎那仏を見本にされ、開眼供養はインドの僧が導師を務め、多くの渡来人が参列されました。このころには日本はグローバルな国でありました。舞楽も伝えられました。https://www.teikokushoin.co.jp/journals/bookmarker/pdf/200904/40.pdf
日ユ同祖論が頭の中で蘇って来ました。BC700年ごろ、ユダヤの国に紛争等があり、氏族が、世界に散らばったという話です。中でも平和と豊かな生活を求め、太陽に向かって東に十氏族がシルクロードを通りインドやチベットを通り中国へ、そして、朝鮮半島から日本へです。日本の皇室の紋章である「菊の紋」が、古代イスラエル神殿の壁にも残っています。鞍馬寺や元伊勢丹後の籠神社にはユダヤ人の印である「ダビデの星」が刻まれています。
日本人が何気なく使っている言葉やカタカナ、習慣、神事等驚く程よく似ています。鞍馬の天狗や、東北のなまはげ等も日本人ではありません、よく禅寺で見る達磨大使の顔も違いますね!祇園祭の祭礼の日も疫病退散も同じで、蘇民将来を崇めています。蘇というのは耶蘇教や蘇我入鹿も出てきます。ユダヤ人の子孫と考えます。最近のDNA検査で日本は独特の型をして、中国人や朝鮮半島の人とも違います。
秦の始皇帝の時代に中国が統一されたのも、中東由来の鉄器を用い圧倒的な武器をもっていたからです。シルクロードの終点には長安があり、秦の都でした。国を統一するには、言語や文字、規律等も同一にすべきで、また、国造りには、土木技術や灌漑等、建築技術も必要でした。それを、原住民が知っていたわけではないでしょう。始皇帝は方士といわれる科学者等を登用しました。その中に不老不死の薬を求めて、日本に来た徐福もいました。秦の始皇帝は、権力を持つと暴君になり、国民を奴隷の様にして使い、平和とは程遠い皇帝となりました。それで、ユダヤの子孫は朝鮮半島にも新しい国造りをしようとしましたが、中国からの干渉や圧力が多いので、南に逃げ、さらに日本へ来たと思います。九州を始め、山陰、吉備(岡山)、奈良などに移住しました。奈良に都ができると、その近辺には村を作って生活を始めました。新しい文明はユダヤの末裔がもたらしたものと考えますBC200年頃からAC300年の間に、何度か古代中国人等と集団で来日され、平和な豊かな国造りを始められたと考えます。日本の神社には痕跡が沢山残っています。明治からは、何故かその歴史は一般には伝えられていませんが、脈々と継承されていました。正月を祝ったり、祭りをしたり、五穀豊穣を願ったり、感謝祭があったりと、日本の神道が出来上がったと思われます。また、インド由来の仏教も、神道と共に信仰されました。神仏習合ですね。
興味がある方は古代日本とユダヤを検索するとYOUTUBEでも見られます。
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