近代京都の恩人
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最終更新日:2014/04/27
京都ってこんなとこ, 頑固おやじのひとり言
来年のNHKの大河ドラマは、「八重の桜」同志社の創始者、新島襄の妻八重さんの話であります。
八重さんは、福島県会津若松で、白虎隊と一緒に、新政府軍と戦いで家族を殆ど無くし、会津藩も壊滅させられ、兄の山本覚馬を頼って京都に移住されました。明治維新の生き証人の様な方でした。
私は同志社在学中から、明治の初めに、国禁を犯し渡米した新島襄が、何故京都の御所の横、薩摩藩邸跡で、英語の学校、しかも、キリスト教を日本で始めて教える事ができたのか疑問でした。
NETで検索して見ると、お兄さんの山本覚馬さんの偉大さを発見いたしました。
先祖に甲州の武田信玄の名軍師の山本勘助におられ、覚馬さんは会津藩の砲術家でした。
佐久間象山、勝海舟、横井小楠、西郷隆盛、木戸孝允等との交流があり、戊辰戦争がおこらないように幕府と薩長に交渉していた人でもありました。
明治に入り、天皇が東京に行幸されるのに公家、武士、商人等が、その時の京都の人口の七分の一が、一緒に江戸に行ってしまいました。京都も衰退を覚悟させられた。そんな時フィクサーとして、大車輪の様に活躍したのが覚馬さんです。
http://www.mars.dti.ne.jp/~takefuku/essay/es03/es0303.html
このように山本覚馬の生涯をながめると、幕末から維新という時代の変革の激動期にあって、先進的な識見をもって生きた先覚者であったということができます。
明治元年には、覚馬が新政府に宛てて「管見」を提出した。
政治、経済、教育等22項目にわたり将来の日本のあるべき姿を論じた建白書である彼はそれを自分の見解(「管見」)と謙称している。
山本覚馬について
そして、国からの資金を多額に引き出し、京都では、多くの小学校を造り、琵琶湖疏水、内国勧業博覧会、勧業振興等を積極的に行い、同志社を設立し、舎密局(理化学研究所)を誘致、水力発電、市電を走らせ、京都大学や、島津製作所の礎つくりをした。
新しい日本のモデル都市を槇村知事のフィクサーとして活躍しました。
山本覚馬によって、京都は技術都市、学研都市となった。
彼の活躍が無ければ古都になってしまっていたかもしれない。