歴史の中から見えるもの
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最終更新日:2021/04/22
井上章一さんに物申す, 頑固おやじのひとり言
皇族京都帰還論
特に洛中の中高年は歓迎されるでしょう、洛外はあまり関係ないと思います。
警護に対しても、祇園祭や葵祭、時代祭で慣れておられます、又観光シーズンの渋滞はひどいですよ、文句を言われる方もおられますが、しゃあないなあと我慢されています。
洛中に住んでいると、自転車や徒歩で済ませる場合も大石、祭りの警護は他府県の警察も応援に来られます。
皇族が常時おられるようになれば、皇宮警察も転勤されてこられるでしょうから、井上さんの心配は杞憂になるでしょうね!
京都には、いまだに伝統産業が残っておりますから、皇族が帰って来られるのに反対はされないと思います。
東北大震災のあと、特に地震災害の危機がある東京に皇族が全員住まわれているのを、心配なさっている市民は多いです。
幕末は新兵器によって。
江戸は無血開城で京都は戦場と化していたといわれていますが?鳥羽伏見の戦いはありましたが、洛中はどんど焼けという大火災で、洛中の三分の二は焼けたと言われます。
このころの歴史を検索してみてください。どんど焼けは、長州が京都から排斥された為に、長州藩の屋敷に火をつけました。
幕府側も長州藩が隠れている様な地域に火をつけました。
禁門の変で長州は265名亡くなり、幕府側は100名ですから、砲撃をしたのはどちらかわかりませんね!
関ヶ原の戦いで、毛利は石田光成方の名だけの総大将であったので、江戸幕府の時代も所領は半減されましたが、長州藩は残りました。しかし江戸幕府は関東以北の大名を重用し、西日本は虐げられたと長州は感じて、長州の自治を考えたのでしょう。
鳥羽伏見の戦いは、江戸の薩摩藩邸の焼き討ちから、端を発しているともいわれます。江戸守護職の庄内藩を主とした者達の仕業です。
鳥羽伏見の戦いは、錦の御旗を行列の前に掲げていた事と、薩摩が輸入していた最新式連発銃の一分間に20発と旧式銃一分間に2~3発の兵器の違いでしょう。
この時すでに一万丁以上を薩長軍は持っていました。アメリカが南北戦争の時に北部軍が使って勝利した、スペンサー銃です。
NHK大河ドラマ「八重の桜」で綾瀬さんが、お兄さん役の山本覚馬にもらった銃です。
江戸の無血開城は、勝海舟の仲介で、徳川家を温存すれば、江戸幕府を新政府軍に明け渡す、日本の将来を考え、焼き討ちはしないでくれと懇願したのです。
また、この新兵器の脅威を幕府軍に説いて、開城を促したのではないかと推測します。
新政府軍にしても自分達のものになれば、焼く必要がないので、目指すは、江戸での敵である、庄内藩会津藩に向かったのです。
庄内軍は、新兵器も持っていたので、抗戦するが、武士道を重んじる会津は徹底抗戦をするので、被害が甚大になったと思います。
新政府軍の強さは、新兵器の使用にあり、江戸時代の平穏な時代を過ごしていた幕府軍の旧兵器では歯が立ちません。
映画「ラストサムライ」の様に新兵器を武士道の戦いであったろうと思います。
会津藩は最後まで交戦し、若い白虎隊まで組織して抗戦してしまいました。美談ではあるでしょうが、人道的にはいかがなもんでしょうか?
戦火が拡大したようです。いまだに、会津は長州を嫌っています。新政府軍は恭順したところには、攻撃はしていません。又武器を持たない人達は、出来るだけ殺さないでいました。新政府の協力者にもなるのですから。
徳川家も庄内藩の処遇も、決して過酷なものではありませんでした。
私は同志社出身なので、何故薩摩藩邸が、会津藩の山本覚馬により、国禁を犯した新島襄が英学校を創れたのを疑問に思っていましたが、明治政府は政敵の幕臣にたしいても寛容だったのだと理解しました。
明治に入り1894年、朝鮮で東学党の乱が勃発し、その鎮静を清と日本とでしたのですが、覇権争いから日清戦争が始まり、ドイツ式の軍隊教育や新兵器の威力により日本が勝った、それによ挑戦は独立国となった。
井上氏によると日本人は残虐な好戦性を持つという意見には反対であります。
ひいき目かもしれませんが、侵略では無くて、独立をさせたのでもあるし、戦場は朝鮮半島近辺のみで、中国本土までは追撃していません。
新兵器や軍事力への過信から起こったものでしょう。
弱い者を助け、強者をくじく精神だと解釈しています。
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