歴史なんて
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最終更新日:2014/04/27
ひとり言, 頑固おやじのひとり言
高校生の頃、私の学校は、大学は推薦入学だったので、学校の成績で、学部が決まる仕組みでした。
歴史の先生に、歴史には年表を暗記するよりも、流れを知ることが大切なのでは、試験に年を入れるのは意味ないことと、生意気な提言をしていました。
しかしながら、試験には年の問題が入っていました。
京都遷都は何年ですか等です、勿論できませんでした。
先生が内緒で、貴方には下駄(加点)を履かせておくからと言われました。
今になってみれば、論文式にすると、点数をつけるのが大変だったからでしょう。
しかしながら、歴史は年代だけがまあまあ正確で、後の事実は、歴史編纂で、どれを取るかによって変わるものと、最近になってようやく解りました。勝てば官軍負ければ賊軍です。
未だに、東日本では、龍馬を評価しなくて、薩長土佐は敵と思っている人もいる様です。
京都人はあまり政治家を評価しない傾向があります。
尊皇精神は、根強く残っています。武士は、いつかは、京都からいなくなる旅人の様な者と思っているのでしょうか?だから、家康は江戸に幕府を移したのかもです。
知人に八幡和郎さんがいます。今回「会津の悲劇」に異議あり【日本一のサムライたちはなぜ自滅したのか】 (晋遊舎新書)が今日発売されました。
・会津は孝明天皇の意に沿ったが幕府には反抗的だった
・国元で善政を敷いていた訳でなく戊辰戦争でも民衆の多くは官軍に味方した。
・新撰組を使っての治安維持は京都市民からも嫌われた
・坂本龍馬を暗殺したのは会津藩で藩主など最高首脳の指示だった
・斗南への移転は会津が希望したものだし、不毛の地でもなかった
・松平容保は誠実ではあったが心身ともに弱く決断力に欠けた暗君だった
・明治体制で会津武士はむしろゴネ得気味に優遇された
・会津藩士はほとんど信州人で地元の人はいなかった
・戊辰戦争でも銘々が勝手に動き組織としてお粗末だった
・藩校日新館での教育は時代おくれで実用性に欠けた
・身分差が激しく身分を超えての人材登用は進まなかった
これが正しいかどうかは、異論のある方もおられるでしょう、特に会津の方は、そんな馬鹿なと一笑にふされるでしょう。
歴史とは立場が違えば、解釈に大きな相違があります。
領土問題も、両方の立場から、考えてみたらいかがでしょうか?
- 1つ前
- それでも秋がやってきます。
- 1つ後
- 日本人の良いところ